神のことばの学び 第一回 ペンテコステやシャブオットに何を思うか
- アイラブジーザスチャーチ
- 2024年5月20日
- 読了時間: 13分


<主題>
平和の絆で結ばれて一つになるために
メシア(ヘブライ語)=キリスト(ギリシャ語)による真の平和と一致の完成へ
<<副題>>
終わりの時代にメシアによって回復する
全世界の神観とアイデンティティーと救いについての理解
エペソ4章1〜6節 父なる神は一つ
エレミヤ書31章34節 互いに主を知れと教えない
ヨエル書2章30〜32節 主の名を呼ぶ者はみな救われる
黙示録22章4節 神の名が額についている
★★★
2023年10月7日のハマスのテロ攻撃を受けて世界が当事者意識で
イスラエルとパレスチナの関係から見る自国と自己の棚卸し作業
全人類は一人の男性と一人の女性から生まれ出た子孫として
最初の家族から家庭問題は今に至るまでトライアンドエラーで学んでいる
神との関係の優先順位を間違えたアダムから始まる
家族形成の問題は現在に至っている
聖書では神との関係破綻の状態を「的外れ」、すなわち「罪」と表現し
その神との関係破綻の状態に気づき、認め、創造主なる神の与えてくださった
関係回復の方法である御子イエスの十字架と復活によって
和解と本来の創造主である父なる神との永遠の関係性は回復できる
その回復した状態を永遠の命を得た状態というわけであるが
アダムとエバに見る夫婦関係のすれ違いは
子育ての失敗からの兄弟の殺人事件に至り
その失敗の連鎖はノアの時代に究極的な堕落に至った
創造主は人類が失った関係性の回復のために
神様の声に聞き従うことを人類に求め
ノアの方舟を通してそのプロセスを経たが
ノアの家族以外従う者がいなかった
ノアはセム、ハム、ヤペテのために祈るが
それが現代に至る人類史の中で具現化してきた
黒人の父祖ハムの子孫たちは白人の父祖と呼ばれるヤペテの僕となる時代を経て
そして世界史は西から東に回ってこの時代
セムの子孫、黄色人種の人たちが
ヤペテの天幕を作っていく時代になることを切に願います
ノアの時代の洪水の後
神様との関係回復の歴史を歩み始めるものの
すぐにバベルの時代
人類は産めよ、増えよ、全地に満ちて
神様の作られた世界を管理、治めていくはずが
高い塔を作り、増え広がっていくことをせずに
不従順を繰り返すことになる
そして一つであった言語はバラバラになり
それから民族、国家形成をしながら
歴史は散り散りバラバラの歩みをしていくことになる
その後信仰の父と呼ばれるアブラハムですら神様の約束と神様の声に聞き従うよりも
愛していた美しい妻のサラの声と判断で間違いを犯すことになります
それが今のイサクとイシュマエルの子孫の争いの根源となっています
なかなか夫との間に実の子供が与えられない期間に
苦しい思いをした妻は
神の約束の成就まで待てずに
側女であるお手伝いさんのハガルとの間に子供を作れば
それが約束の子供になるのではないかと間違った判断をしてしまい
そして、ハガルとの間に子供ができると
お手伝いさんが本妻を見下すようになり
それに耐えられずサラはお手伝いさんとその子供を家から追い出してしまいます
そこで苦しみの中で叫んだその祈りは
創造主である神様に届き
イサクに敵対する者として彼らが以後歴史を形成する者たちとなります
さて、人類はアダムに始まる父祖に始まり、現代に至るまで
自分と神様との関係のアンバランス状態を棚に上げて
自分以外の隣人のことを評価してしまいがちであるが
イスラエル・パレスチナ問題にある
人類の本質的な共通の課題は
家族、親族の関係のすれ違いによる関係破綻からの争いや
貧富の差と教育の差が生み出した生活層の違いがもたらす
妬みと嫉みから争いを垣間見るのである
これはイサクとイシュマエルの子孫の争いを見て
中東における宗教や民族問題として捉えて
他人事のように
自国や自分自身には無関係のように捉えがちだが
中東問題は
人類の共通の課題が具現化していることとして捉えて
自己や自国にある類似する本質的な共通課題に向き合っていきたいものです
そして、いわゆるイスラエルの正統派や現代イスラエル国家のアイデンティティーを持つ
ユダヤ人を含む非宗教的なイスラエル人と
20世紀以降のイスラエルとパレスチナの定義によるアイデンティティーの和平構築は
政治的に歩み寄ろうとも
宗教的、民族的アイデンティがそれを一つにしにくい状況となっているが
中東の和平や人類の戦争の終焉は難しく、不可能のように見えたとしても
天地創造の父なる普遍的な存在=神は
受肉=インカーネーションして人類に一致と和解と和平の方法を示した
それが2000年前に地上に誕生したナザレ地方出身の処女マリアを通して
誕生したイエスによる
タナッフ(トーラー・ネビィーム・ケトビィーム)により預言者たちによって
示されてきた罪なき子羊のいけにえによるのである
これは、人類、個々人の神との関係破綻がもたらした
個々人、人類の死にいたる様々な選択する性質である
それを新約聖書ギリシャ語では「ハマルターノ」といい「的外れ」という意味を
日本語では「罪」と翻訳した
その解決と神と人との和解の方法である
さて、歴史を振り返って
バベルの塔以前は一つの言語であったのだが
人類の不従順が言語をバラバラに至らしめてしまい
そして、人類は世界各地に広がりながら
民族や国家を形成していくようになる
口伝による教えや情報の伝達も
言語の違いに加え
教える者と聞く者の解釈の誤差により
更に文化や生活への適応はより多様的に広がっていくことになる
ことに、信仰、宗教観においては
別の神を崇めているようにもなり
また同じ神を崇めているようでも
教える者、聞く者の適応で
それは第三者から別の神を崇めているように
見えてきている
同じ神を信じているとしている
ユダヤ人、アラブ人、そしてそれ以外の各国の国々の人たちは
時代ごとに別々の宗教を生み出したかのように捉えられているが
ユダヤ人でタナッフだけを信仰の拠り所としている人たちは
エロヒーム、ヤーウェなる唯一の神を崇めているユダヤ人たちは
これから真のメシアが来ると教えており
コーランを土台としてモーセ五書を大切にするアラブ人の信仰は
モハメッドを最後の大預言者として崇め
アッラーのみを唯一の神として信仰生活を送るが
イエスキリストの復活と再臨は信じられている
そしてナザレのイエスをモーセ五書、タナッフの約束のメシアとして
受け止める人たちはそのメシアの再臨による被造物の贖いの完成
または、人類の救いの完成を待ち望んでいる
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と違った宗教観に至って
それぞれの間に戦いと争いは繰り返され
福音宣教の拡大と共に大航海時代に
「聖書」特に
旧約聖書のイスラエル観、信仰観が
教会に置き換えられて比喩的に解釈されるようになって
新天新地を求めたヨーロッパのクリスチャンたちは
十字軍、世界大戦、ホロコーストを経て
旧約聖書の適応を繰り返しては植民地と支配を繰り返してきた
20世紀に入り
ローマ帝国に国を追われて以来
イスラエルが国として復興すると
比喩的に解釈してきた旧約、新約聖書のイスラエル観、すなわち神の国観、教会観は
霊的な解釈のみによらず、実際的で立体的でホリスティックな
解釈へと移行していくようになった
さて、ここで
1948年のイスラエル国家再建も
政治的にのみ解釈する人たちはそれを認めない、認めたくない考えもあり
イギリスが三枚舌外交でユダヤ人、アラブ人、フランスとやりとりしたことの因果で
イスラエル・パレスチナ問題が発生して
その政治的決断の是非が今もなお問われているわけである
さて、
ユダヤ人のアイデンティティーを揺るぎないものにしてきたのが
『タナッフ=モーセ五書・預言書・諸書』の神観であるのだが
ヤーウェ=神聖四文字の名をみだりに唱えてはならないと示された
モーセの十戒はヘブライ語で書き記され
また、ヘブライ語の神の名の読み方が
唯一の正しい神の名という解釈から
神観の排他性と人種差別性が生まれていることも理解できる
そもそも
バベルの塔以前の言語はヘブライ語ではないわけだが
聖書66巻の信憑性と影響力が
ヘブライ語とギリシャ語の言語の価値観を大きく高め
16世紀頃ヨーロッパのルター時代に同時多発的に発生した
聖書言語の解釈の修正による宗教改革が
口伝や又聞きから発生していた誤差に修正をかけるように
グーテンベルクの凸版印刷によるコーデックス本の誕生が
情報の確認の修正をしやすくさせ
原点回帰や信仰の復興や刷新に影響を与えるようになった
しかし、考えると
各国の言語をもとにした神観では
世界が一つにならないことがわかる
なぜなら、ヘブライ語、ギリシャ語の原点回帰した言語解釈で
各国、各時代に応用できる言語翻訳も
時制と文化の違いで言語の翻訳は常に限界がある
もっと言えば
翻訳者の思想や価値観が
複数ある言語の意味の置き換えに多大に影響を与えてしまうのである
さて、世界は個人も国も
自分たちのアイデンティティーのあり方を模索しながら
またアップデートしながら
現代に至っている
それはつまるところ人権の解釈と起源の考え方と適応に影響を与えることになる
時代と政治と世論で形成される国際法と
神の普遍的価値感との擦り合わせを考えるとき
時代により変化できるものと
時代が変わっても変化するべきではないことの範囲も
多様化してしまうことになる
私は神のことばを真実として
信じるものとして考えるが
まだ神を信じていない人がいるならば
もしもマーケティング的にデータから最も価値ある文献が
聖書であり、旧約聖書、新約聖書であるならば
その前提に立って真剣に考えてみてもらいたい
私たちは
今回のメッセージで掲げた
テキストの解釈をどう捉えることができるだろうか
エペソ4章1〜6節 父なる神は一つ
エレミヤ書31章34節 互いに主を知れと教えない
ヨエル書2章30〜32節 主の名を呼ぶ者はみな救われる
黙示録22章4節 神の名が額についている
終わりの時代に天地を造られた創造主がご自身の霊
(言語や知識だけでは理解できないその性質や賜物)を
全世界、全人類に注がれ、与えたいと思われていることがわかる
それを受け取るときに
もはやお互いに「主」=「神」=「天地創造の存在」を知れということがないと
約束されている
その霊とは
ゴルゴダの丘で預言通りに十字架にかかったナザレのイエスが
天地創造の普遍的存在が与えたメシアであることが
わかるようになることで確認ができるのである
神との関係破綻がもたらした
自己の価値の喪失は
家族や隣人との関係破綻を生み出し
自分と隣人のアイデンティティー喪失による
受け入れ合えない苦しい状況が発生して
今に至るのです
もし、私たちの存在=アイデンティティーの認識の損失、喪失からの回復が
一つの国や言語の価値観によらず
天地創造の普遍的存在による愛と憐みと恵みによる
プレゼントによるのだとしたら
私たちは家系や能力や学歴や努力によらず
世界共通の唯一のアイデンティティーの回復を得ることができる
それが天地創造の神の子供であるというアイデンティティーである
「神の名」は
言語と指導者と時代の数だけ分科化されるようになった
ヘブライ語でさえ
ユダヤ人でさえ
神の名はエヒエロギアとハヤトロギアと二つに分かれている
すなわちモーセに表した創造主の本質と
モーセの十戒で表現されている「神の名」は当然違いがある
神の名をみだりに唱えてはならないと示された十戒を守ったから
ユダヤ人は神の名の呼び方を忘れてしまったと言われがちだが
モーセに創造主が現れて答えた神様の名前は
名詞ではなく、むしろ動詞的存在の本質や性質を教えているのであった
そして、その神のご性質のヘブライ語的変化系が
神の名として表現されるのだが
ユダヤ人たちはその神聖四文字をみだりに唱えないように
ヘブライ語で間接的に神を呼ぶように
「主=アドナイ」か「唯一の神の名=The Name=「ハシェム」と置き換えた
ユダヤ教もイスラム教もキリスト教もそうだし
他の宗教も増えて
いかにも信仰の対象物が増えたかのように見えるが
人類史が始まって以来
天地創造の普遍的な存在である父なる神は一人である
一つである
私たちは、政治、経済、宗教のアイデンティティーでは
一つになることができないが
天地創造の普遍的な存在である神の霊によるならば
一つのアイデンティティーに到達し
そして、そのアイデンティティーのゆえに
和解、一致、融合、和平を築き上げることができる
人類は歴史の反省と学習で人類の平和と繁栄のために互いに歩み寄るという
努力をし続けてきたし
し続けていくのだが
どうしても3次元的、あるいは4次元的物理的な限界のために
私たちは無限の創造主なる方を
100%正しく表現することができない
そして、人類は自分たちこそが正しい解釈や信仰を持っていると考えがちなので
互いの信仰スタイルや神観を否定してしまう傾向にある中で
主の名を呼ぶものは皆救われるという神の約束は
決して
ヘブライ語で呼ぶときでもなく
日本語でもなく
イエスというカタカナで親しんだ単語を発生することでもない
神=普遍的存在は一つ
救いは一つである
メシアであるナザレのイエスが示した
十字架の愛は
創造主の人類に対して表された
本来の愛の完成系の形である
創造主との関係破綻する前の人類は
みな本来実践できたものである
しかし、私たち一人一人の
創造主なる神との関係破綻で
永遠の命を失っても
メシアの贖いを受け入れるとき
その永遠に喪失しようとしていた
永遠の霊性が取り戻されて
本来の創造主の似姿に造られた人類のアイデンティティーは回復するのである
全ては滅びても
神=創造主=唯一なる方の「ことば」は変わることがないと教えられた
その「ことば」こそ
創造主の本質であり
もともと世界が一つであった言語にあったのに失った
最も重要な要素は
創造主の普遍の愛の性質である
バラバラになった世界の言語
その本質を失った言語から展開された神観と宗教観は
真のメシアであるナザレのイエスを受け入れるときに的を射ることができるわけなので
世界の争いと戦争や分断やすれ違いに
最も必要な喪失した要素は
「赦し」という
すなわち自分や相手の変動的な状態に関わらず
どんなことがあっても寄り添い続けるという
共生の姿である
アガペーと表現された
ギリシャ語の「神の愛」=「無条件の愛」は
ヘブライ語では「アハバー」となるが
その愛の本質は
共にいる神
インマヌエル
聖霊によって一貫して示され続けている
どんなことがあっても相手を捨てず
見限らず
永遠に一緒にいるという
創造主から受け継いでいる本質を取り戻さない限り
達成できない
人類の行動である
イスラエルも
パレスチナも
ユダヤ人もアラブ人も
このナザレのイエスをメシアとして受けいれている人たちの間には
平和が形成され始めている
もちろん人間は失敗し
最善を願っても実現できないことがある
しかし、神の価値観に生きる人が増える一方で
それを阻止しようと必死に足を引っ張る
目に見えない悪魔の存在がある限り
平和は完成しないが
しかし、ナザレのイエス=平和の君は
創造主も
また創造主との関係回復した者も
そうでない者も皆が求める
真の平和
その真の平和の完成と共に
人類が創造主との関係破綻と共に
苦しんできた悪魔の支配が終焉し
創造主の願う、そのご性質で満たされた
愛と平和と喜びと義と命の国が
完成するのである
エルサレムの平和は
メシアの再臨と共に完成する
それまで創造主から聖霊を受けた人たちは
共同作業をしながら
イスラエルの回復と世界人類への福音宣教の完成という
ミッションに向かって前進し続けるのである
それは全て
創造主を愛し
隣人を自分のように愛することの中で実現できる
互いに愛し合いなさい
敵をも愛しなさい
真のメシアが人類に新しく教えた戒めは
義務でも強制でもなく
人々が内面から本質的に求め
必要としている事柄である
真理はあなた方を自由にします
ナザレのイエスは道であり、命であり、真理である
ナザレのイエスを知るとき
私たちは失ったものはもちろん
未来的に得られる全てを得ることになるのである
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