家族の回復の証⑥
- アイラブジーザスチャーチ
- 2024年6月3日
- 読了時間: 7分

五十嵐家家族回復奮闘記第6回
弟の結婚式からの流れで
30年前に神様に迫られた命の価値について考えさせられた
高校三年のあの時の選択を振り返っていましたが
今回は今年2024年の3月11日の
震災13年の記念に仲間の教会で
話そうとしていて出来なかった
命の価値について
五十嵐家の回復から体験的に学びながらの
東日本大震災での経験を書いてみます
東日本大震災では世界中でまたは日本中でそうでしたが
私もまた我が家も特別に
命について深く考える機会をいただくことになりました
多くの方達にとっても
同じような思いになった方も少なくないことと思います
命の尊さ
その命の価値の素晴らしさ
失って気づくことがあるとしたら
大切な存在である人の死ほど
強烈に人を愛することを考えさせられることかもしれません
思い起こすこと東日本大震災の年、2011年
発災直後に支援活動をスタートしてから2ヶ月後
5月12日に娘の突然死を経験して
命の価値は
人生の長さや
何ができたかでは計れないことを
震災で被災された方達への支援活動の中で
間接的に命の尊さを考えさせられながら
自らも親よりも早くに我が子の死を経験して
身をもって学ばせていただいた2011年
昨日のことのように鮮明に記憶は蘇ります
そんな中で出会った当時の一人の女子高生が
家庭の経済事情から高校に行けなくなり
生きる希望を失い
子供を妊り
そして、子供を産んで育てる決意をした年に
私たちも突然死で娘を失いました
その後に娘の喪失感から
その娘の存在の穴埋めのような
次の子供を願う気持ちにはなりたくないので
夫婦で亡くなった娘のことをしっかりと受け止めて
夫婦で祈りながら
私たちは本当に
もう一人子供を欲しいと願っているのか
寂しさ紛れで次の子供を求めていないか
時間をかけて祈りの中で夫婦で納得して
神様に次の子供を求めて
与えられた娘が主輝です
当て字なのでまず読めませんが
主イエスの栄光が輝くことを願って
日本で昔イエスさまを「エスさま」と呼んだのと
その神の栄光が輝くように
主輝=エステルと名付けました
そして、その名前の由来は聖書のエステル記で
ユダヤ人滅亡の危機の際に
王妃として選ばれたエステルが
その同胞の滅びから救いに用いられましたが
原発事故で福島はじめ
日本はもう駄目か?と
思われたそのネガティブな
思いを乗り越えていけるように
娘の突然死の後に祈って祈って祈って
欲しくて欲しくて欲しくて
祈り求めた新しい命に
我が家が失望ではなく希望となったように
エステル記のように
大逆転の祈りを込めて名前をつけました
それは福島にも
日本にも同様に
絶望ではなく
希望の未来が開かれるように
祈りと願いを込めて命名しました
今回は命の価値について書きたいのですが
これまで家庭崩壊や
夫婦関係と和解と回復のお手伝いをする中で
あなた(親、夫婦)の命はもちろんのこと
与えられた命は神様の意志と計画の中で
産まれてきたものであることの視点から
共に考えてきました
私のおばさんのようにどんなに願っても
子供が与えられなかった場合もありますが
願ってもないのに
欲しくもないのにできてしまった
という言い方をする方とも
大勢お会いしてきましたが
その現実に妊った赤ちゃんについて
その子供の命を
自分の価値観で捉えるか
神の価値観で捉えるか
夫婦や家族の回復のお手伝いをするときに
常にそこに立ちます
最近、仕事のスタッフのお子さんと
我が家の三女エステルが同い年の同級生なので
その二人が一緒に遊ぶ姿を見るだけで
涙が溢れてきます
当時高校生で自暴自棄になり
子供ができてしまって
男性は自分のことしか考えず
中絶してくれと
お願いされて
子供の命は望まれませんでしたが
お母さんになるこのスタッフ
命は神様から与えられたと受け止めて
一人シングルマザーとして産んで
一生懸命に育ててきたその素晴らしい子供が
我が子と一緒に遊んでいる
もしもあの時産まれていなかったら
この光景はないんだと感動しながら
親に望まれなかった命と
親に望まれた命と
人の目には相対的でも
神様の目からは
その命の価値は同じで
生きているだけで
そのままの姿で素晴らしいということを
この東日本大震災後に
娘の突然死からの三女の誕生と
関わっていた女子高生に与えられた
赤ちゃんの誕生とで
人を愛するとは何かを学ばせていただいています
その女子高生は陣痛が来た時に陣痛と分からず
もう少しのところでその場で産まれそうなところで
一緒に病院まで行っただけに
互いの子供たちが仲良く遊んでいるだけで感動します
これまで、様々な夫婦と関係回復の
お話しをするときに
お子さんがいらっしゃる場合は
子供の視点から回復について考えます
私の母とも
私も親になって
話せるようになったことがありました
基本は夫婦喧嘩は10対0のケースはごく稀で
両親の喧嘩について振り返ったとき
聖書は「最初に訴える人の訴えは正しく聞こえる」とありますので
必ず双方のお話を聞いて
同意できるポイントと
互いに反省し
悔い改めるポイントを話し合います
母にこんなことを言ったことがあります
私が生まれるころ両親は
まだクリスチャンでなく
最近でいう授かり婚
いわゆるできちゃった結婚となるわけですが
母には喧嘩の話において
自分の視点でものを言うのは
カウンセリングとしては
しょうがないかもしれないことで
子供として大切なお母さんの話を聞くのはいいけれど
「申し訳ないけれど私が産まれるとき
お母さんはお父さんに手錠はめられて
監禁されて子供を作らされましたか?」
と尋ねました
それならば「お母さん、可哀想でしたね
こんな子が産まれてごめんなさい」と言ってもあげたいですが
母には
「私が産まれるとき互いに同意して子供が与えられたわけですよね?」と
その時愛し合っていたとしても
一時的な感情での判断だったとしても
同意しているならば
自分の視点からの話だけ聞いても
それは公平なジャッジかできないよねというと
本人も子供に敬われながら
自分の言い分に寄り添ってくれながらも
自分の中にある問題点はないの?と尋ねると
当然、人はどんぐりの背比べですから
相手のことを100%悪く言えるケースは
本当に犯罪の被害レベルでないと
お互い様が多いわけです
夫婦、家族を考えるとき
まずは、自分の存在価値を
どう見るかに立たされます
複雑で難しい状況はありますが
一人一人価値ある命の
全ての命の差に違いはないことを
本当に人が認め合おうとする時に
その隣人関係は
変わってくるのだとおもいます
かつて自分の責任で家庭が壊れて
ホームレスになったおじさんと関わり
その方がクリスチャンになられたので
夫婦の和解を勧めたら
元の奥様はすでに再婚されていましたので
そして、ホームレスになったお父さんを
尋ねてきた娘さんが
携帯番号を残してくれたのに
頼ってまた迷惑をかけたくないので
それを捨ててしまったと言いましたが
娘さんのお家の場所は覚えているというので
そのおじさんに家庭を壊してしまったことを
悔い改めて人生を前向きに歩んでいる姿を
せめて娘さんを訪問してあげて
お子さんとの関係回復を
してみてはどうですか?と勧めて
娘さんとお会いできたことがありました
自分を愛するように隣人を愛しなさい
自分の命の価値と
周りにいる隣人の命の価値が
同じく尊ばれるものである視点に立ち
これからも和解と回復を願う
夫婦や家族のために
またそれを願う子供たちのために
できることを模索していきたいです
命の価値について
次回は
拉致被害者の交渉をした方との出会いと
念願の横田早紀江さんとの出会いの中で
46年間その
与えられた命の尊さの故に
我が娘を今も必死に探している
その姿から
命の価値と平和と和解と回復について
考えていきます

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